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動物の死というもの



 先日、八景島の朝日が亡くなった。筆者は写真や動画でその姿を見て、誕生日botや赤パンダリストのために簡単な情報を集めただけであったが、春にはコキンという配偶者も得て、これからの彼らの幸せな生を期待していただけに残念な思いだった。


 動物園が生きている動物を扱っている場所である以上、その死とは切っても切れない場所である。筆者にとっては動物園は、写真を撮るだけの場所ではなくなくなってしまったので、その死はなぜ訪れたのか、という疑問には直面しなければならないと思っている。もし仮にその死の原因に、人間が少しでも関与している可能性があるならば、人間が責任をとらなければならない。責任を取るというのは誰かが罰を受けるということではなくて、今後同じ原因を人間側で作らないように、動物のために環境を整える必要があるということである。


 ほとんどそれは動物園の仕事ではある。だが、ここ最近、動物園だけが、動物の責任を負う、というのは間違っているように思えてきている。というのは、動物園は金も人も限界であり、その中で人を集めようとしているので、その方法が誤っている場合もあるし、現在のところそれを細かく規制するような法律はないのだ。そうなれば、訪問客が、それが動物にとって良いことかどうかを判断する必要があると思う。


 筆者の考えの根底には「飼育下の動物が不利益を受けた場合、その動物には決して責任はなく、その責任は人間にある」というものがある。未だ朝日の死因が分かったわけではないが、若くして亡くなったのにはそれなりの理由があると考えている。人間も万能ではなく、現在の人類ではどうしようもないこともあるが、それに目をそむけていては何も良くなっていかないと思っている。それが自分の手の届かないところのものなのかどうか、それくらいは考えてみる必要はあると思う。


 とはいえ、はじめから動物園というものがあまりにもハードルの高いものであっては、興味を持つ人すらいなくなる、そのきっかけすらつかめないままになってしまう、という問題もある。筆者としては、動物の愛らしさなどをきっかけに、動物に興味をもち、動物のことを知っていく上で、彼らが抱えている問題を一緒に考えることができる人が増えていけばよいなと思っているし、それが動物園という場所だと考えている。それはもちろん人それぞれだと思うので、こうでなければならない、という考えを無理強いするわけではないが。


 動物園の動物が生きている動物である以上、その死は最も重く受け止めなければならないものである。それは辛いものであるが、ただ悲しむだけでなく、自分のできる範囲でその死については特に深く考える必要があると思う。それがこれまで素敵な姿を見せてくれた個体に対しての、せめてものできることではないかな、と思っている。

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